すれ違い侍のお行儀

電車の中で懸命にメークする女の子。お行儀が悪いのは明らかだが、私はこの女子のこの先の一日を勝手に想像してしまう。電車を降りた先に大好きな人と待ち合わせしてるのかな、もしくは、完璧なメークが必須の接客の仕事場に遅刻しそうなのかな…。
ある時は信号待ちの車の中で。ふと隣の車を見たら、運転席のマダムが夢中で唄を歌っている。縦に大きく開かれた口。オペラだろうか。これから声楽のレッスンに向かうのか。それとも、趣味のオペラを家族に干渉されず、思い切り楽しめる唯一の場所がひとりで運転する車中なのかもしれない。

他人の油断する姿。その隙には様々なストーリーを思わせる無限のドラマがある。かく言う私も油断と隙だらけ。
ある日の暗闇の坂。買い物して帰路を急ぐが、空腹過ぎて歩みが遅い。今日は忙しくて昼食を食べ損ねていた。「ここ、私道だから誰も通らないよね」と、買い物袋からこそっとクッキーを取り出す。一口のつもりが、もう一枚…。と、その時、なんと向こうから女性の人影。「まずい」と思ったがもう遅い。暗闇で侍同志がすれ違うほどの緊張感が走る。呆然とする私に、敵の侍も同様の表情だ。そして、すれ違いざまに驚いた。敵も手にクッキーを持っていた。「そなたも同じか…」。聞こえない声で互いにつぶやいたにちがいない。「今日も一日、お疲れでござった」。心でそうつぶやいたら、なんだか笑いが込み上げてきた。

文・関千里 絵・田上千晶


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